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2015月3月27日更新

3分でわかる!鶴ヶ城(会津若松城)を10倍楽しむために知っておきたい会津の歴史

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鶴ヶ城(会津若松城)を10倍楽しむために知っておきたい会津の歴史について教えてください。(大学3年生・女性)


 

福島県会津若松市にある名城「鶴ケ城(会津若松城)」。

会津若松といえば戊辰戦争の最大の悲劇ともいえる「白虎隊」抜きでは語れません。

会津若松に訪れる際に少しでも哀しい歴史を頭に入れておくだけで、幕末の戊辰戦争の時代、この会津の地が激しい戦闘の場にあったということがより感慨深く感じられます。

ここで、鶴ヶ城(会津若松城)における歴史を簡単にご紹介いたしますね。


鶴ヶ城  panoramio



 

会津の歴史について



江戸時代までの鶴ヶ城



会津は鎌倉・室町・江戸時代と時代とともに、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた地であります。

奥州の制覇を狙っていた伊達政宗が、内紛があった葦名氏を打ち破り会津の地は伊達氏の支配下に置かれました。しかし、時の権力者であった豊臣秀吉の命令で伊達氏は会津の地を手放すことになります。

江戸幕府二代目将軍、徳川秀忠の庶子にあたる保科正之が三代将軍の家光により実弟と認められ、会津を領地として与えられます。

保科正之の子が受け継ぐときに幕府より松平性と葵の紋を与えられ、正式に徳川を親藩として松平藩政は九代続きました。

 

江戸時代末期から明治維新へ



悲劇の始まりでもあるペリー率いる黒船来航をきっかけに幕府と薩摩藩・長州藩が対立し始めました。

幕府は不穏な京都の治安を守る京都守護職を設け、その職務につく白羽の矢は会津藩に向けられたのです。

当時の会津藩主である松平容保は「徳川への忠誠心」の家訓を重んじる幕老たちに従わざるをえなく会津の地を離れたのです。

しかし、公武合体の夢を持ち京都の守護職に就いた松平容保は、尊皇攘夷派である倒幕軍の恨みを一身に受けることになり、さらに孝明天皇が急逝すると一転して会津は悲劇の道へ進んで行ってしまいます。

 

江戸幕府の終焉~江戸城開城へ



尊王攘夷派の薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕軍が優位に立つと、十五代将軍である徳川慶喜は大政奉還を受け入れ江戸城を無血開城し徳川300年余の歴史は終わりました。

お役ご免となった松平容保は会津へ戻り、王政復古された今、幕府の命で動いていた容保は朝廷の敵とみなされたため、会津の軍政を改革し、迎え撃つ薩摩・長州藩からなる明治新政府軍と武力衝突をする準備を進めたのです。

 

賊軍(朝廷の敵)となった会津藩



白虎隊の結成



白虎隊の存在は今や日本中に会津藩の悲劇の象徴として広く知られています。

明治維新という大きな時代の流れの中で、ただ直向に会津を守るという忠誠のために戦地へ赴いた16~17歳の少年たち。白虎隊のほとんどは会津藩士の子や弟でした。

 

会津藩の教え「ならぬことは ならぬのです」



一度は聞いたことがあるフレーズですよね。会津武士の子は約束ごとを決め、その約束に背かないよう努力するという心構えが、この「ならぬことは ならぬのです」なのです。

また、会津藩の男子たちは10歳になると日新館(にっしんかん)という藩政の学校に入学する決まりでした。

日新館は鶴ヶ城の西側にあり孔子を祀った御殿、今でいう小学校、大学、天文台、印刷出版所、図書館など、この時代には稀にみる設備の整った学校でした。


会津藩校「日新館」全景  ウィキペディア



 

会津の地は戦の場へ



戊辰戦争の局面のひとつであり会津戦争とも呼ばれている悲劇の戦い。

1868年1月鳥羽伏見の戦いを皮切りに新政府軍標的会津に向けられ、会津藩も諸藩と同盟し軍を配備していましたが、同年8月、会津藩の軍が猪苗代町の母成峠で敗退すると雪崩れ込むように新政府軍が会津の地に足を踏み入れました。


「母成峠古戦場」の碑  ウィキペディア



 

白虎隊の出陣



隊を編成されてから会津の地を守ろうと、鶴ヶ城三の丸の調練場で激しい訓練を続けていた白虎隊。

8月の朝、「士中白虎隊は殿様に従い出陣!正午まで用意して城に集合」という回覧があり、白虎隊は互いに手を取り合い初陣を喜び合いました。

母成峠を越えた新政府軍は一斉に会津領内へ雪崩れ込み、会津軍は陣を立て直す暇が全くありませんでした。

殿様に従い城下町にある本陣についた白虎隊。さきに戦火である戸ノ口原に向かっていた一隊から援軍の要請があり、本陣には白虎隊しか残っていませんでした。

白虎隊は殿様に別れを告げ、初陣に感激しながら喜び勇んで戸の口原へ向かったのです。

 

白虎隊 戦火で迷走



白虎隊は戸の口原の陣地に着いてから炊き出しの大きな握り飯を食べました。これが最後の晩餐だったのです。

連絡に行った隊長の帰りを夜更けまで待っていた白虎隊は、班の隊頭の指揮により銃声の音を頼りに進み、何人かは班隊頭と一緒に戸の口原へ向かってしまいました。

途中で新政府軍とかち合い白虎隊は拡散し、銃の火蓋を一斉に切り応戦しましたが傷付いて倒れる白狐隊士もいました。

迫り来る危機から救うため隊長に代わって年長の少年が退却命令を出し、戦場から追われるように退きバラバラになってしまったのです。


戸の口原「白虎隊奮戦の地」碑  アマナイメージズ 




白虎隊 飯盛山で自刃



20人残った白虎隊は一丸となり、新政府軍を避けながら飯盛山に辿り着きました。

今まで経験したことがない凄まじい戦闘、敗走、睡眠不足で少年たちは疲れ切ってた少年たちは、予想もしていなかった目を疑うような光景を見てしまったのです。

高台から見えた鶴ヶ城は黒い煙と赤い炎に包まれ、火の海と化した城下からは絶え間なく砲声と銃声が聞こえていました。

全員が気落ちしていたところ、一人の隊士が「敵の手にかかって後世まで恥じを晒さないよう、最後まで会津の武士らしく潔く皆で切腹しよう!」と遥かに望む鶴ヶ城に一礼をしてから自刃しました。

白虎隊だけではなく会津藩の軍が降伏するまで会津の各地で戦いが繰り広げられ、城下の武家屋敷では残された婦女子が自刃するという悲劇が相次いで起こっていたのです。

ペリー来航から会津藩の悲劇までの一連を、この年の干支にちなんで「戊辰戦争」と呼ばれるようになったのです。

飯盛山で自刃した白虎隊ただ一人の生き残りである飯沼貞吉は、喉に脇差を突き立てたが死にきれず瀕死の状態で発見されます。明治維新後は貞雄と改名し、通信技師として逓信省勤務し日清戦争にも従軍したとされています。


飯盛山  ウィキペディア




自刀の地から望む鶴ヶ城  ウィキペディア




白虎隊十九士の墓前  ふくしまの旅



 

一ヶ月の籠城、そして降伏



孤立し援軍も来ないまま松平容保は籠城しましたが、昼夜砲弾にさらされついに「9月22日」降伏を決意します。

その後、残った会津藩の軍たちは敗戦処理に追われ、家老の萱野権兵衛の切腹により会津藩松平家の断絶は免れました。

毎年9月22日に「会津秋まつり」が開催されるのは、戊辰戦争に倒れた先人の霊を祀るためでもあるそうです。

 

いかがでしたでしょうか。激動のなか戦い抜いた会津藩の悲しい歴史が少しでも伝わったでしょうか。

会津若松に訪れたとき、見た目が美しい鶴ヶ城とは裏腹の悲しい歴史を思い出していただければ嬉しいです。

2015年3月27日

written

by しんじろう


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